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空海の文章表現の特色——『宝鑰』・『十住心論』に見られる問答形式

本文作者: 6年前 (2013-05-05)

空海の文章表現の特色―― 『宝鑰』『十住心論』に見られる問答形式 ――               …

空海の文章表現の特色

―― 『宝鑰』・『十住心論』に見られる問答形式 ――

                日本高野山大学名誉教授 静慈圓

     問題の所在

弘法大師空海(以下空海と略称する)の生涯において、最も大きな出来事は、「入唐求法」である。空海当時の日本は、中国長安の政治・文化を取り入れることに汲々としていたことは論を俟たないところである。空海入唐当時の中国は、まさに地球上の一大文化圏をなす大国であった。中国から見ると日本列島は、東端の小国にすぎなかった。その中国民族が用いていた言語は、漢字であった。つまり空海入唐とは、漢字文化圏の中心に空海が留学したということである。したがって空海の人間像・思想を研究するには、まずは漢字を基とする必要がある。

 空海の文章は、大別して思想面(密教)と文学面に分けられよう。いずれの場合も空海自身の文章が残っており、それらの文章から、空海の主張するところは理解できる。空海の文章に一貫して言えることは、理知的と言うことであろう。理知的と言う意味は、必ず資料を踏まえた文章内容であるという意味である。その資料は、中国の古典が基本となっている。したがって空海の文章を読むには、中国古典の素養なしには、理解できないのである。このことは筆者が常に主張していることである(注1)。

 文学面の空海の文章には、基本としてのスタイル(文体)を見出すことができる。その基本は、『文選』所収の文章にある。『文選』は、周から梁に至る文章・詩賦などを文体別(37体)に分けて撰している。筆者は、この文体を重視し、空海との文章の関係を詮索してきた(註2)。この方法は、空海の文章においては、有益な分析方法であると考えている。

 だが空海の思想論文の文章表現は、これとは別に考える必要があろう。空海の思想論文で、空海が必要とする基本的資料は『文選』ではなく、仏典であることより見れば、当然なことである。今、文体と言う立場に執著して、空海の思想論文をみると、そこに何らかの法則性を見つけることが可能であろうか。これが本論文の課題である。

 さて、空海の思想論文中に「問答」による文章表現がある。この部分は、空海自身が作為した文章表現になっている。古来「問答体」という文章形式はないが、空海の文章を見ると、問答形式と言える文章は見出せる。しからば空海自身にとって問答形式は何なのか。以下このことについて検討していきたい。

 

     『秘蔵宝鑰』の問答形式

 

     1、『秘蔵宝鑰』の構成

 空海は、宗教的体験をとうして、自らの悟りを確証した。その悟りは、教理的な方面と実践的な方面の両方から文章として表現した。

 『秘蔵宝鑰』(以下『宝鑰』と略称する)は、十住心思想を確証した空海が、自らの悟りを披露した文章である。周知の如く十住心思想は、『秘密曼荼羅十住心論』(以下『十住心論』と略称する)の大著に説かれている。『宝鑰』は『十住心論』の略論とされてきた。筆者もこの結論を否定するものではない。

 ただ、この両書を見ると『宝鑰』は単に略述して述べられているのではなく、空海の密教関係の著述の中でも、独特な特徴を持っている。それは空海が自ら主張する密教思想を、いかにすれば多くの読者に理解してもらえるか、ということを最も意識して書いた著作である。そのための文章構成として、空海は「変分」という文体を用いていた。このことについては、「『秘蔵宝鑰』に見られる「変分」の影響」と題して発表しておいた(註3)。つまり『宝鑰』は、空海が思考した文章平易化の表現であったのである。

 本論文では、『宝鑰』中における「問答形式」について述べ、『宝鑰』が、文章形式平易化の極限であることを検討する。

 

『宝鑰』

第1住心

第2住心

第3住心

第4住心

第5住心

第6住心

第7住心

第8住心

9住心

 

 

10住心

偈頌による表現

 

 

住心の内容(問答)

十四問答

 

 

 

 

 

 

 

偈頌による表現

 偈頌による表現

偈頌による表現

偈頌による表現

偈頌による表現

偈頌による表現

偈頌による表現

偈頌による表現

偈頌による表現

偈頌による表現

 

大日経・菩提心論

大日経・菩提心論

大日経・菩提心論

大日経・菩提心論

大日経・菩提心論

大日経・菩提心論

大日経・菩提心論

大日経・華厳経

大日経・菩提心論・

金剛頂大教王経・

守護国界主陀羅尼経

大日経・金剛頂經・菩提心論

 

 

 

 

 

 

 

極不の問答(釈論)

極不の問答(釈論)

極不の問答(釈論)

極不の問答(釈論)

 

教乗起因

人 乗

天 乗

声聞乗

縁覚乗

法 相

三 論

天 台

華 厳  

 

 

眞 言

※『秘蔵宝鑰』内容構成の図表

 

     2、各住心と問答形式

 『宝鑰』に従って、まず問答形式を指摘しておこう。

 始めに、上記図表Cの問答形式を検討する。

Cの部分において、第1住心の問答形式は、「問依何経建立此儀。答大日経也。彼経何説。経云。云々」(註4)とあり、「云々」の所つまり答のところで各経典からの引用があり、思想内容が述べられている。第2住心以下の各住心すべてにおいても、問答形式は同じである。

 この表において各住心の引用経典の内容を見ていくと次の如くである。要点だけを述べていく。

 

 第一異生羝羊住心。問。第一住心は何れの経典に依るのか。答(註5)。『大日経』住心品に言う。生死の世界に浮沈している愚童凡夫に触れている。これらの凡夫は、自我と自我の所有物に執著して、邪見や妄分別を起こしている。そのことが理解できない無智は、羝羊の如くである、と言っている。

『菩提心論』に言う。凡夫は自身のみに執われて、三毒(貪瞋痴)と五欲(色声香味触)とを行じている。眞言行者はこれらを棄てるべきである、とある。

 

 第二愚童持斎住心。問。第二住心は何れの経典に依るのか。答(註6)。『大日経』住心品に言う。愚童凡夫も因縁によって善心が誘発され、ある時ふと持斎の心が生じる。そしてこのことに歓喜の心をおこし、しばしば行うようになる。すなわち第二の芽種心、第三の疱種心、第四の葉種心、第五の敷華心、第六の成果心等と順次深まりを見せていく、とある。

 

第三嬰童無畏住心。問。第三住心は何れの経典に依るのか。答(註7)。『大日経』からは、3カ所の出典がある。①『大日経』住心品からの部分は、空海自身の意見が出ている。そこでは、外道が出離をねがって、種々に身心を苦しめているけれども、断、常、有、空に偏する教えでは、あたかも角をしぼって乳を得んとするようなものである。だが因縁の空を知ることが出来れば、直ちに解脱することが出来るのである、とある。次の②③は、具縁品からである。すなわち②は、因より果が生じたり滅したりするのは、それは他の者とのかかわりに依るのである。このことを知ることを世間の三昧道と言う、とある。③は、世間に影響する眞言法教とは、衆生を利益せしめんがために仏が説き給う、と言うことだとある。

『菩提心論』からは、もろもろの外道は、一時の長寿を得、妙薬を受けているけれども、まだ三界(欲界、色界、無色界)の迷妄を脱していない。善業の力は尽き、またもや苦海に沈淪する。外道の法は、幻や夢や陽焰の如くにはかない、とある。

第三住心の問答形式は、大部分が空海自身の言葉で造られている。空海の問答の中心課題は、次の文章が必要であろう。空海は、第三住心で議論する問題の「問」に対し、その「答え」として、「高問來叩鐘谷何黙。嘗試論之。」とし(註8)、次の如く言う。

夫狂毒不自解医王能治。摩尼不自宝工人能栄。所謂医王工人豈異人乎。我大師婆伽梵其人也。如来徳具萬種。一一徳即一法門之主也。従彼一一身隨機根量説種種法度脱衆生。(註9)

上文中、狂毒は自ら解消出来るものではなく、医王によって初めてよく治癒することが出来る。医王と言うのは、世尊如来のことである。その如来が万種の徳を具して、衆生の機根に従って、一一の徳(法門)によって、済度していくのである、とある。この内容つまり「薬と機根」という喩を用いて密教の教えを説く方法は、空海の基本的な形式であり、文中で多く使用されている。

「薬と機根」の喩は、『宝鑰』だけでなく、他の宗教論文においても同様である。この喩の内容が、問答形式の文中で説かれている時は、空海が最も意識して、思想表現の平易化を説いた箇所である。

第三住心では、そのほとんどが問答形式の文となっている。空海は、経典を出典資料としながら、衆生の性欲に随って、教法を説き衆生を済度していくことを説いている。問答分の空海の答に、「機根契当故。餘薬無益故。」とある。(註10)衆生の機根にふさわしくない他の教薬は、何の利益も効能もない、とは空海が常に主張するところである。

 

第四唯蘊無我住心。問。第四住心は何れの経典に依るのか。答(註11)。『大日経』からは、2カ所の出典がある。①『大日経』住心品からの部分は、声聞乗は、人我は空であることを理解しているが、根と境と識との相応する感覚世界にとらわれるから、前進することが出来ない、とある。②具縁品からは、声聞乗の人は、生によって断言を離れ、滅によって常見をこえる。これを声聞の三昧道という、とある。

『菩提心論』からは、次の第五住心のところで一緒に説く、とある。

上記図表Aの一四問答。

第四住心を見るに、この住心も文章全体の90パーセント以上が、問答形式によって構成されている。文章の大部分は「一四問答」と言われる部分である。この「一四問答」は、思想の主張ではなく、対社会的な俗問答であり、その中で仏教の必要性を強調している。この独自な内容の中に、空海が模索した密教宣布と言う問題が意識されていることを知らねばならない。僧侶以外のものが『宝鑰』を読むことを意識して書かれた内容となっている。

「一四問答」の内容は、次の通りである(註12)。まず項目だけを示す。

 (1) 僧尼非法の問答

 (2) 時と人との問答

 (3) 全くその人なきかの問答

 (4) 和光同塵の問答

 (5) 看別の難易問答

 (6) 僧俗の損益問答

 (7) 僧俗の難易問答

 (8) 読経読書の同異問答

 (9) 儒仏の同異問答

 (10) 謗法罪に関する問答

 (11) 人法の種類問答

 (12) 論疏の謗法問答

 (13) 仏法と王法との問答

     ① 仏法と王法

     ② 僧尼が国難を招くとの論

     ③ 仏教の国家に対する機能

 (14) 何故に非法の僧尼が多いかの問答 

 上記によって、問答の内容は明らかである。各問答は、その内容が平易であるために、解説を加えるとかえって理解を妨げるほどである。今ここでは、問答形式と言う立場から、必要事項を述べていくこととする。

 一四問答は、国家の災害腐敗は僧尼の頽廃濫行によるとする憂国の公子の詰問に対し、それに答える玄関法師の弁明よりなっている。以下に内容を示す。

 問(1)は、仏教は国家を鎮護し衆生を利済すべきであるのに、多くの僧侶は、頭髪を剃っても欲を剃らず、衣を墨染めにしても心を善法に染めることを知らない。だから旱魃や洪水がしきりにおこり、疫病が年ごとに流行し天下が乱れるのである。だから仏教なんていらない、とある。これに対し玄関法師は、麒麟や鸞鳳が一たび世に出れば、天下太平であり、如意宝珠や金剛石が一たび世に現れると、人の願いのままに種々な宝を降らす。しかし麒麟や鸞鳳が現れないからとて、禽獣の族を絶滅すべきでなく、如意宝珠が得られないからと言って、金玉の類を捨てるべきでなかろう、とある。

このように理解しやすい内容が、種々な例を引きながら論じられている。

 問(2)の時と人との問答では、「時是濁悪、人根劣鈍」、つまりいまは末法の濁世であり、人の根機も鈍劣である、とある。問(3)の全くその人なきかの問答では、そうではないとのことを例示する。問(4)では、和光同塵(光を和らげ塵に同ずる)のように、大徳の人は謙虚であるので、看別し難いとする。問(5)でも同じく看別の難易問答を行っている。

以上は憂国の公子の仏教非難と、それに答える玄関法師の弁明である。

 問(6)以下の問答では、僧尼と仏法の存在と国家との問題を論じている。問(6)は、僧尼は蚕が桑の葉を食い尽くすようなもので、国家の弊害である。これに対しては、僧と俗との損益を比較し、儒教を学ぶ百官諸職の邪悪浪費を指摘せず、僧尼のみを穿鑿するのはおかしいとしている。問(7)は、僧尼が経典を読誦し、仏を礼拝することが、どうして国家にむくいているのかとの問である。この答えとしては、問題は僧尼にあるのではなく、経典の妙法そのものが貴いことを述べる。雪山童子は一句の妙法を聞くために身を投じて餓えた虎の餌食なった、と例示している。

 問(8)は、儒教では五経三史を読誦している。仏典の文字が貴いと言うことと異ならないとの質問である。答は、儒教の典籍と仏典とは異なる。五経の文が罪を消し災禍を除いたということは聞いたことがない、とある。問(9)は、釋迦は弁を好んでいたずらに功徳を説くが、孔子は謙譲であり自らその教説の功徳を誇らない、とある。この答えの中に「謗即堕深坑」つまり、仏を謗ると、地獄の深き穴に堕ちて苦しまねばならない、とある。このような恐喝的な脅しの文句があるのも面白い表現である。

 問(10は、謗法罪の関する問答である。問は、十悪業や五逆罪を犯した者が地獄に堕ちるのは当然であるが、人を謗り法を謗ったからと言って、何で地獄におちるのか、とある。答は、あなたは療病の方法を知らない。病気を療養するには必ず三つの方法に依るべきである。①には、医者。②には方経。③には、妙薬である。病人が医者を敬い、薬の処方箋を信じ、それを服餌すれば、病気はよくなる。如来が衆生の心病を治すのもこれと同様である。仏は医王であり、教は方経であり、その理は妙薬の如くである。そして法は人によって広まり、人は法を待って悟ることが出来る。人と法とは一体で、離すことが出来ないのである。したがって人を謗れば法を謗ることになり、法を謗れば人を謗ることになる、とある。この「薬」の喩は、空海が教えをやさしく説く時に、常に用いる表現である。

 問(11は、その人法にいくばくの種類があるか、と問う。答は、二種あり。顕教と密教の法である。そして「如是諸経法契当其機根并皆妙薬」とある。衆生の機根の重要性を述べている。問(12は、人師が主張する論疏を見ると、みな他の教説を破って、自説を立てている。それは法を謗ることにならないのか、との問いである。答は、菩薩は慈悲を根本としており、名利の心をさしはさんで浅深の事を言っていないので謗法とはならない、としている。

 問(13は、対社会的な問題として「仏法と王法」との関係、「僧尼が国難を招くとの論」、「仏教の国家に対する機能」について問答している。その結論とするところは次の如くである。

  其無病則無薬有障則有教。妙薬悲病而興仏法愍障而顕。是故聖人出世必由慈悲。大慈

 与楽大悲抜苦。抜苦与楽之本不如防源。防源之基非教不得。疾有軽重薬則強弱。障有

 厚薄教則浅深。(註13

 すなわち病気がなければ薬はいらない。煩悩の障りがあるから教法が存在する。妙薬は病気を悲しんで興り、仏法は迷妄の障りを哀れんで現れたのである。大慈は衆生に安楽を与え、大悲は衆生の苦しみを抜き除くと言うのは、衆生の心病の源を防ぐことを言っている。その病源を防ぐには教法によらなくてはならない。病患に軽重があるから薬に強弱がある。心の障りに厚薄があるから教法に浅深があるのである、とある。

 問(14は、何故に非法の僧尼多きかを問題としている。答は、物の道理として「美女は招かずとも好醜の男が争うて訪問し、医師の門には召さずとも病人が集まる」等と述べる。そして物の道理として、善と悪との雜住が是の如くに行われているのであるから、僧尼の中に非法乱行の者がいても、それは怪しむに足らない、と述べる。

 

 以上十四問答の要旨を述べておいた。ここでは問答形式を用いて、平易な文章で社会の中で仏教が必要なことを説いているのである。

 

 第五抜業因種住心。問。第五住心は何れの経典に依るのか。答(註14)。『大日経』、『菩提心論』、『十住毘婆娑論』をあげている。『大日経』住心品から、縁覚は十二因縁を観じて惑業を除く、と説く。また『大日経』具縁品から、縁覚は因と果とを深く観察して、言語を離れたる三昧を身につけている、と述べている。さらに具縁品には、声聞と縁覚とは三昧の上に浅深勝劣の異なりがあるとする。声聞がただ無名の現行を断ち切るにすぎないのに対して、縁覚はさらに微細に観雜して、その現行のみならず、その種子である習気をも取り除くのである、とする。

 『菩提心論』では、二乗の中、声聞は四諦の法、縁覚は十二因縁観を最上としている。これを修して紆余涅槃の果を身につけ、さらに無余涅槃に入ることをもって究竟としている、とある。ただ、第五住心の最後に、『十住毘婆娑論』を引いて

  若堕声聞地 及辟支仏地 是名菩薩死 則失一切利 若堕於地獄 不生如是畏

  若堕二乗地 即為大怖畏 堕於地獄中 畢竟得至仏 若堕二乗地 畢竟遮仏道

とある(註15)。声聞・縁覚の二乗に堕ちるよりは、地獄に堕ちる方がましである。地獄に堕ちても転じて仏になれるが、二乗に堕ちることは仏の道を失うことである、とある。この意味は、注視する必要があろう。

 

 第六他縁大乗住心。法相宗にあたる問。第六住心は何れの経典に依るのか。答(註16)。『大日経』、『菩提心論』である。『大日経』住心品を引いて、五蘊(色・受・想・行・識)の法の種子の住処である阿頼耶識を観察し、この識の他にあるものはないとの唯識説を修し、全ての諸法はあたかも幻の如く自性なしと悟る、と説いている。

 『菩提心論』の中より、衆生が三無数劫の長年月を費やして、六度の万行を修して仏果を身につける。このように長年月を費やして成就するのは、その教法が階級次第を基本として、融通性がないからである、としている。

 

 第七覚心不生住心。三論宗にあたる。問。第七住心は何れの経典に依るのか。答(註17)。『大日経』、『菩提心論』である。『大日経』住心品を引いて、我そのものをも捨てて、有無に固執しない自心の本不生を悟ることを述べている。

『菩提心論』には、「当知一切法空。已悟法本不生心体自如不見身心。住於寂滅平等究竟真実之智令無退失。妄心若起知而勿隨。妄若息時心源空寂。」とある(註18)。

 

第八一道無為住心。天台宗にあたる。『法華経』と『大日経』、『大日経疏』によって、法華一乗の妙法と如実知自心の心を説いているが、問答形式とはなっていない。本論文で問題とする第八住心の問答形式は、『釈摩訶衍論』引用のところで見られる。これについては後述する。

 

第九極無自性住心。華厳宗にあたる。勿論『華厳経』によって説かれている。その思想を見れば、「寂滅之果果還為因。是因是心望前顕教極果。於後秘心初心。」とある(註19)。ここでは、第九住心の果は、第八住心から進転してきた果位であるけれども、これを第十住心に比すれば、この果位がかえって因位ということになる。つまり因と果の関係は、一回だけではなく、因果の対立をとおして、その矛盾を一層高い境地に進めるという運動・発展において、因と果が繰り返すことで因果をとらえている。また毘盧遮那仏が、はじめて成道せられたとき、第二七日に置いて、普賢等の諸大菩薩のために、広くこの極無自性の義を説かれた。それがすなわち『華厳経』であるとし、蓮華藏世界のことや海印定に入り法界の圓融無礙を感じること、帝釈天の珠網と錠光との喩のこと、善財童子が百城を巡り善知識を訪ねたことなどを説いている。

問。第九住心は何れの経典に依るのかの答(註20)は、『大日経』、『金剛頂大教王経』、『守護国界主陀羅尼経』、『菩提心論』である。要点だけを示しておく。

『大日経』からは、三カ所の出典がある(註21)。第十住心からすれば、第九住心は初心であり、秘密成仏の因である。ここに空海の第九住心の位置づけが見られるのである。

『金剛頂大教王経』には、一切義成就菩薩が一切如来に、いかに修行すべきやと問うと、一切如来は、善男子よ、自心を観察する三摩地に住して、自心の本性を成就する眞言を、自ら思うままに誦ずべし、と答えている。

『守護国界主陀羅尼経』では、仏が成仏の道を次のように説いている。汝いままさに鼻端において、月輪を想い、月輪の中に唵字の観をなすべし。この観をなし已て後夜分において、無上正等覚を成就することが出来たのである、とある。

『菩提心論』では、仏は衆生の心の病に応じて教えの薬を与え、色々の法門を施設して、その衆生の煩悩に随応し、生死の渡し場に迷えるものの心病を癒すのである。その法門とは、大海を渡る時の船筏の如きものであるから、此岸から彼岸に達し已わればその要はない。仏の救いの法門も悟った後にはその要なく、捨てるべきである、とある。

 

第十秘密荘厳住心。真言宗にあたる。如来の三摩地の法門は、両部大経が所依であることを指摘している。この住心は特に『菩提心論』を中心に構成されている。その内容は①普賢の大菩提心、②日月輪観、③五仏と四波羅蜜、④十六大菩薩、⑤月の一六分、⑥阿字の観門、⑦三密行と五相観、⑧証悟の徳相、⑨問答決疑である。問答決疑の問(註22)は、先に声聞と縁覚との二乗の人は、法執があるから成仏することが出来ない、と説いた。そして今は、五相、三密等の有相を説いている。つまり法の存在を認めていることは、法執ではないか、との問いである。答。二乗の人は法執があるから無数劫の長時間を経なければならない。眞言行者は、極細妄執はすでに摧破しているのであるが、なお無始よりこのかた衆生と仏とを隔てる惑がある。この枠を除かんがために、三密の妙道を求め、五相の次第を修して、凡夫の肉体のままに仏位に入ることが出来る、とある。そして菩提心の功徳をもって讃歎している。

第十秘密荘厳住心では、最後に問答を重ねて文章を終わる。その中での、第一の問答では、教には常に浅略と深秘との二義があること。そしてこの大日如来の三摩地の法は、未だ潅頂を受けない者に向かって一字も説いてはならない、とある。第二の問答は、第十住心の位置づけである。すなわち第九住心までの九種の住心は、皆至極の仏果ではないが、九種それぞれに浅深としての位置があることを示している。そして眞言密教とは、『大日経』と『金剛頂經』を基本とし、法身である大日如来が、自己の眷属である四種法身と共に、眞言の宮殿に住して、自受法楽のために説いた教えであると結んでいる。

 

以上『宝鑰』において問答形式の箇所を指摘した。これによれば各住心の出典のところで問答形式を用いていることが明らかである。その中で第四住心中の「十四問答」は、特に別立てとして位置づけられている。

以上の問答の内容は、その要点のみを示しておいた。

 

     3、『釈摩訶衍論』の問答形式

 上記図表Dの極不の問答。

 『宝鑰』の問答形式は、『宝鑰』の文中に意識的に位置づけられていることが明らかになった。このことはまた『釈摩訶衍論』(以下『釈論』と略称する)の引用を見ても明らかである(図表参照)。『釈論』は、第六、第七、第八、第九住心に限って引用されているが、何れも極不の問答として、各住心の答の箇所で引用されている。

 次に、その要点のみを示していく。

 

 第六他縁大乗住心の極不の問答(註23問。煩悩障と所知障との二障を断じ、四徳(常・楽・我・浄)を円満したこれらの仏は、究竟最極と言えるのか。答。そのような修行過程の仏は、まだ一心の本源を極めたものではない。問。何によってそれを知るのか。答。『釈論』第五に、一切の悪を断ち、一切の善を修し、十地の位階を超えて無上地に到っても、それはまだ最極の者ではない。かかる行者はなお無明の分位に住する者であり、本当の仏位ではない、とある。

 

第七覚心不生住心の極不の問答(註24問。諸々の戯論を断って寂浄無為である。是の如きの住心は、覚りの極底に到達したものと言うべきか。答。『釈論』第五に、清浄の本覚は無始よりの存在であるから、修行を待って初めて現れるものではなく、他の力を借りて初めて得られるものでもない。本性として功徳を円満にし、本より智を具足している。自然法爾と言っても、自然と言う語も適切ではなく、清浄心だと言っても、清浄と言う語も至当でない。絶離、絶離という他はないのである。是の如き当所もなお無名の境域であって、悟りの境地ではない、とある。

 

第八一道無為住心の極不の問答(註25問。このような一法界の理である一道真如の理をもって、究竟の仏と言うべきか。答。『釈論』第五によると、一法界心の本質は、百の非を重ねても否定することが出来ず、千の是を反復しても肯定することが出来ない。中でもない、中でもないのだから第一義天でもない。天でもないのだから流れの如き妙弁をもってするも、談義の道は断ち切れ、それを思い巡らさんとするも、手段尽きて黙念する外はない。是の如くの一心の境地は、なお無明の辺域にして、悟りの光明の境地ではない、とある。

 

第九極無自性住心の極不の問答(註26問。このような一心の本法は、至極である住心と言うべきか。答。『釈論』第五によると、三自の一心の法体は、言語では表すことが出来ない境地であるから、一とも他とも名づけ難い。一と言うも一たること能わず。心と言うも心たること得ず。実にあらゆる表現を超えて、幽玄であり深遠である。だが、幽玄と言っても深遠と言っても、対立をもっている生滅門の所談である。だから無明の辺域を脱することは出来ない。したがってこれも悟りの分位ではない、と言うのである。

 

 以上によって明らかな如く、第六,七,八,九の各住心は、『釈論』の教説によってなされている。空海自身が必要とする言葉が『釈論』の中に見られるということである。その部分を摘出して、問答形式によって表し答としたのである。空海が自らの教学を各住心に納め、各住心の立場をより平易に伝えようとして、問答形式を使用していることが理解出来るのである。

 

『十住心論』の問答形式

 

空海の十住心思想は、『宝鑰』三巻に先行して『秘密曼荼羅十住心論』(以下『十住心論』と略称する)十巻において発表された。両書共にその思想内容は同じである。すなわち浅より深にいたる求道心の発展の過程を十種に分け、それを十住心として体系づけている。両書共に天皇の勅撰である(註27)。両書の撰述は共に天長七年(830)前後であり、空海57歳前後の晩年の著作である。

『十住心論』十巻は、特に大部であり、その略論として『宝鑰』を撰述したとされる見解には、賛同するところである。しかし『宝鑰』にまとめるに当たり、『宝鑰』には、『十住心論』と全く違ったところが現れた。文章表現がそれである。『宝鑰』は、自らが主張する密教の思想を少しでも多くの人に理解してもらうようにとの努力がみられる。文章内容の平易化と言うことについての努力である。そこに「問答形式」があるのである。

 

『十住心論』における「問答形式」を問題とする前に、『十住心論』においての文章表現の平易化を探っておきたい。最も基本的な語彙として「病と薬」の喩を用いている。『十住心論』文頭の大章序の中に次の語がある。

 身病雖多其要唯六。四大鬼業是也。心病雖衆其本唯一。所謂無明是也。身病対治有八。而心病能治有五也。湯散丸酒針灸呪禁者身之能治也。四大之乖服薬而除。鬼業之祟呪悔能銷。薬力不能却業鬼。呪功通治一切病。世毉所療唯身病也。其方則大素本艸等文是也。治心病術大聖能説。其経則五臓之法是也。云々(註28

上の文は、空海が密教思想の説明にあたって、よく引用する「病と薬」との喩である。

内容は病気そのものを細かく分析して、その病気に合った薬を与えること。この方法を

最も的確に説いているのが密教である、との主張である。同場所には次の如くある。

 譬如悪写而求補愛薬而悪毒。誰知体病悉薬乖方並毒。嗚呼痛哉嗚呼痛哉。縦使耆婆更生神農再出。豈棄此取彼悪毒愛薬哉。鈎挽野葛應病妙薬。何況朮黄金丹誰無除病延算之績。苦哉末学。逃大虚於小室。倫鳴鐘乎掩耳。悪水愛火捨心愛色。云々(註29

上の文に、「誰が知ろうか。病気に合えば悉く薬であり、処方箋に背けば毒となることを。ああ残念であることよ。」とある。つまり南都六宗のことを言っているのである。

 大章序では、病と薬の喩を用いて、密教をわかりやすく説明しようとしている。その最後に、問答形式を用いている。

  又問。発趣菩提之時。心所住處相続次第幾種。仏具答之。故経初品名曰住心。今依此經顕眞言行者住心次第。顕密二教差別亦在此中。住心雖無量。且挙十綱摂之衆毛。

(註30

つまり空海が言う病とは、心病のことである。その心病を確実に選別し差別する必要があると言っているのである。そしてしっかりとした処方箋によって、心病に似合った薬を与えるということである。問答では、心病に幾種あるかと問い、答に心病の次第を十種とし、十住心を説いていくのである。以下に各住心を説く。

『十住心論』文中には、問答形式は二つの方面から見られる。一つは、引用している経典の中に見られる問答形式である。他の一つは、空海自身の文中の見られる問答形式である。

周知の如く『十住心論』は、文全体の大部分が経典からの出典である。この点『宝鑰』とは全く違う文章構成となっている。『十住心論』中の引用経典は、莫大な量になり、ここでその全体を示すことは出来ない(註31)。ここでは問答形式が見られる部分のみを摘出するに留める。紙幅の関係で、引用ヵ所の指摘の摘出と、簡単な解説となるが、容赦願いたい。以下各住心を順次検討する。

 第一異生羝羊住心。

 第一住心全体において、問答形式との関係を調べた。その結果、第一住心においては、引用文中に問答形式を使用している箇所はない。また空海自身の文中にも問答形式はない。

第二愚童持斎住心。

 第二住心では、空海自身の問答文が見られる。要点だけを示す。問。帰依の意味はどのようなものであるのか。答。仏法僧の三宝を帰依の対象とし、三宝に帰依し仏の教えを守れば、悪魔から免れることを説く。それはどうしてかといえば、仏の戒は身体を潤し、人の利益をもたらす、と『観仏三昧経』を例示して言っている。さらに問って云く、邪悪を翻す三帰依を受ける訳は、どうしてか、と。答。邪悪を信ずるようになり貪りに執われていた。しかし今、善心を起こして仏の教えに帰依し、三帰依をもって邪な心を翻した。心をかえて仏に帰依し弟子となるから、邪悪から逃れることが出来るのである、と『潅頂經』に言っている。

 『薩婆多毘尼毘婆沙』巻一(今の文は『法苑珠林』巻八八の取意)の中から問答形式を引用している(註32)。

 以上より見るに、問答形式は、空海自身の文と、経典中のものとが見られる。

第三嬰童無畏住心。

『大日経疏』巻二の引用文中に問答形式の文が見られる(註33)。第三住心での問答文は、引用経典中の一回のみである。

第四唯蘊無我住心。

 『瑜伽論』巻八〇からの引用文があり、問答形式となっている。

 つづいて空海自身の問答文がある(註34)。もしこの文(『瑜伽論』)によれば、全ての阿羅漢は、無余涅槃の中において涅槃に入ろうと欲する時には、必ず滅盡定に入って後、無余涅槃に入るのである。問。もしそうだとすれば、智慧の力で煩悩の障害から解脱する阿羅漢(慧解脱の阿羅漢)は、涅槃に入ることは、できないのか。答。これには2つの解釈がある。詳しくは遁倫の『瑜伽論記』に述べられている。

 以上第四住心の問答文は、引用経典中に一回と空海自身の問答とが見られる。

第五抜業因種住心。

 『阿毘逹磨雑集論述記』巻十からの引用文がある。この引用文中に「大智度論云」として『大智度論』を引用しているが、『大智度論』になし(『瑜伽論』巻64の取意か?)。その中に問答文がある(註35)。これ一回のみ。

第六他縁大乗住心。

 第六住心には、問答文は見られない。

第七覚心不生住心。

 『大乗玄論』巻一から長文が引用されている。『大乗玄論』巻一の引用文中に『涅槃経』(註36)、『摩訶般若波羅蜜經』(註37)、『中論』、『六十華厳経』(註38)があり、問答文となっている。

 『三論原義』から長文が引用されている。『三論原義』の引用文中に『十二門論』、『瓔珞經』があり、問答文となっている(註3940)。

 以上第七住心は、引用経典中に問答文が多く用いられている。空海自身の問答文はない。

第八一道無為住心

第八住心は、問答文はみられない。

第九極無自性住心

『華厳一乗教義文斉章』から引用文が見られる。問答文となっている。また『華厳一乗教義文斉章』の引用文中には、『大乗起信論』取意の引用文があり問答文となっている(注41)。

『華厳五教止観』から長文の引用文が見られる(註42)。この『華厳五教止観』の引用文中に『維摩経』、『旧訳華厳』からの引用文があり、問答文となっている。

以上第九住心の問答文は、全て経典中の問答文である。空海自身の問答文はない。

第十秘密荘厳住心

秘密荘厳住心では、空海の悟りそのものが言葉として説かれている。その冒頭の「秘密荘厳住心者。即是究竟覚知自心之源底。如実証悟自身之数量。」(註43)とは、『大日経』の文を引き「經云云何菩提謂如実知自心。」(註44)とあり、続いて次の如くある。

  此是一句含無量義。竪顕十重之浅深。横示塵数之廣多。又云心続生之相諸仏大秘密。我今悉開示者。即是竪設。謂従初羝羊闇心。漸次背闇向明求上之次第。如是次第略有十種如上已説。(註45

 上の如く「如実知自心」とは、空海の悟りを如実に表した言葉である。空海が知り得た

「自心」とは、心続生としての「十住心」であった。空海は「衆生自心其数無量。衆生狂

酔不覺不知。大聖随彼機根開示其数。」(註46)とある。衆生の機根に随って十の住心を

開示していることが明らかである。

 空海自身の問答文がある。要点だけを示す。

 問。すでに秘密荘厳住心の内容、及びかの身密・語密・心密の数や量などを知った。ここで伝えるところの眞言の教えは誰が創ったのか。答。『大日経』によると、諸仏と菩薩と声聞と縁覚と大自在天と大梵天と那延天と帝釈天と四天王と、このような者達は作ることが出来ない。問。誰が創ったのか。答。大日如来が明らかに説いているからである。問。どのように説かれたのか。云々(註47)とつづいていく。結論は、つまり眞言の相は、仏が創ったものでもなく、他の者に創らせたものでもない。本来そのままに存在しているのであるから、如来が世に現れようが現れなくとも、法爾常住もともとあるのだ、との主張である。

 梵字悉曇のことが説かれている(註48)。

 問。悉曇の字母は、世間の童子がみな習っている。この眞言の教えとどう違うのか。答。

世間で習っている悉曇章は、如来の所設であるところの「字相字義」の中の「字相」を説いたものである。「字義」は説いていない。この「字義」を解するところが眞言の教えである、とある。

 第十住心の最後に、秘密の顕密による区別を説いている(註49)。空海の問答文である。

 問。毘盧遮那の所設を秘密と名付け、釋迦の所設を顕経と名づく。しかし釋迦の所設の中にも、眞言及び秘蔵の名があるのはなぜか。答。『大日経』の「心続生之相諸仏大秘密」の句に回答がある。つまり秘密に大小があり、眞言にも大小がある。だから毘盧遮那の説にも大小があり、釋迦の説にも大小がある、との意味である。だから釋迦の説の中に大小があっても不思議ではない。

 最終の問答は、眞言と大眞言との区別である。

 問。眞言と大眞言とは、どのように異なるのか。答。浅深不同であるとの答えである。浅深は、毘盧遮那の説の中にもあり、釋迦の説の中にもある。浅を眞言と言い、深を大眞言という、との意味である。

 以上第十住心を見るに、問答形式は、空海自身の文中にのみに見られることが明らかになった。

 

結  語

 

 空海の「十住心思想」は、『十住心論』十巻と『宝鑰』三巻において説かれている。古来両書を書く必要がなぜあったのか。つまり『十住心論』のあとで、『宝鑰』を書く必要がどこにあったのかについては、明快な答えは得られていない。両書の内容はもちろん「十住心思想」の展開である。本論文は「十住心思想」を問題としたものではない。

筆者は両書を読んで、両書は文章の書き方(表現の仕方)に大きな違いがあることに興味を持った。本論文は、文章表現を問題とし、『宝鑰』を中心に、両書を検討した。その結果得られた結論は、次の通りである。

1、問答表現から両書を見ると、使用量において両書は全く異なる。『宝鑰』三巻は、そのほとんどが(七〇パーセントほど)問答形式を意識して用いている。反対に『十住心論』十巻は、文章量の多さに比べて、問答形式は極めて少ない。

2、『宝鑰』では、問答形式が意識的に用いられている。『大日経』、『菩提心論』等の引用経典を資料として用いているのがそれである。空海は、問答文の答の部分に経典を用いて、経典に説かれる思想内容をそのまま結論としている場合が多い。

3、『宝鑰』において、『釈論』からの引用は、第六,七,八、九住心の最後の部分で、意識的に引用している。『釈論』の内容をそのまま自らの結論としている。

4、『十住心論』において、問答形式としての引用は、二つの型がある。一つは、引用経典中に見られる問答文である。他の一つは、空海自身の問答文である。

5、『十住心論』の空海自身の問答文は、極めて少ない。序文一回、第一住心一回、第二住心一回、第三住心なし、第四住心一回、第十住心三回のみである。各場所を思想内容から検討しても、問答形式を意識して、文章構成をしたとは考えられない。

6、空海自身の言葉に、「病と薬」の表現がある。このたとえは、空海が自ら確証した密教思想を、相手に理解しやすい言葉で説く一般的表現である。多く使用されている。

7、両書における問答文のこの対照的な相違は、次のことを語っている。つまり『十住心論』は、全く問答形式を意識していない。『宝鑰』は、あくまでも文章内容の平易化をめざし、意識的に問答形式を多く組み込んでいる。文章の平易化における空海の特別の努力・手腕を見るのである。

以上、空海の文章の平易化における特色を論じた。

 

(1) 静慈圓著『空海密教の源流と展開』(大蔵出版社)。『日本密教与中国文化』(中国上海、文匯出版社)

(2) 註(1)参照。

(3) 拙稿「『秘蔵宝鑰』に見られる「変分」の影響」(『密教学研究』第二十一号)。

(4) 『弘法大師全集』第一輯(以下『弘全』と略称する)四二二頁。高野山大学密教文化研究所発行。

(5) 『弘全』四二二頁。

(6) 『弘全』四二五頁。

(7) 『弘全』四二九頁。

(8) 『弘全』四二六頁。

(9) 『弘全』四二六頁。

10) 『弘全』四二七頁。

11) 『弘全』四四五頁。

12) 『弘全』四三二頁。

13) 『弘全』四四二頁。

14) 『弘全』四四八頁。

15) 『弘全』四四九頁。

16) 『弘全』四五一頁。

17) 『弘全』四五五頁。

18) 『弘全』四五五頁。

19) 『弘全』四六〇頁。

20) 『弘全』四六二頁。

21) 『弘全』四六二頁。

22) 『弘全』四七〇頁。

23) 『弘全』四五二頁。

24) 『弘全』四五五頁。

25) 『弘全』四五九頁。

26) 『弘全』四六五頁。

27) 『宝鑰』、『十住心論』共に勅撰であることは、両書の序文で明らかである。「勅」が嵯峨天皇か、淳和天皇かについては明らかでない。頼喩の『秘蔵宝鑰勘註』(『真言宗全書』第十一、六九頁)、季翁の『十住心論科註』(『続真言宗全書』第十三、六頁)参照。

28) 『弘全』一二六頁。

29) 『弘全』一二八頁。

30) 『弘全』一二九頁。

31) 『十住心論』引用の出典については、小野塚幾澄著「弘法大師教学形成の背景」(『大正大学研究紀要』第五十四輯)に詳細に表示検討されている。 

32) 『弘全』一八六頁。

33) 『弘全』二二二頁。

34) 『弘全』二七四頁。

35) 『弘全』二八八頁。 

36) 『弘全』三四〇頁。

37) 『弘全』三四五頁。

38) 『弘全』三四五頁。

39) 『弘全』三四八頁。

40) 『弘全』三五一頁。

41) 『弘全』三七一頁。 

42) 『弘全』三七九頁。

43)、(44)、(45)、(46) 『弘全』三九七頁。

47) 『弘全』四〇八頁。

48) 『弘全』四一二頁。

49) 『弘全』四一三頁。

 

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