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大随求曼荼羅試論-隠された中世東西交渉と意楽-

本文作者: 6年前 (2013-10-17)

はじめに兵庫県北西部に所在する真言宗の古刹寺院、船越山瑠璃寺には、兵庫県指定文化財「大随求曼荼…

 

 

 

はじめに

兵庫県北西部に所在する真言宗の古刹寺院、船越山瑠璃寺には、兵庫県指定文化財「大随求曼荼羅」(以下、「瑠璃寺本」と呼称する)という現存唯一の本格的な大随求菩薩のマンダラが伝えられている(図1)。大随求菩薩は、もとは陀羅尼を神格化した女尊で、梵名をマハープラティサラー(大随求明妃)と言った。のちに孔雀明王や蜜呪随持仏母、大寒林仏母、降大千界菩薩とともに、パンチャ・ラクシャー(五護陀羅尼の明妃)を構成した(註3)。大随求菩薩/マハープラティサラーを説く経典『大随求陀羅尼経』には、サンスクリットとチベット訳と、漢訳である唐・宝思惟訳『仏説随求即得大自在陀羅尼神呪経』(大正蔵no.1154)、唐・不空訳『普通光明清浄熾盛如意宝印心無能勝大明王大随求陀羅尼神呪経』(大正蔵no.1153)の、計四本が存在し、不空により『金剛頂瑜伽最勝秘密成仏随求即得神変加持成就陀羅尼儀軌』(大正蔵no.1155、以下『随求儀軌』と略記する)も漢訳された。漢訳経典では明妃を女尊ではなく「菩薩」として訳したため、東アジアを中心に男性尊格として定着したとみられる。

さて瑠璃寺本は、縦五五・二㎝、横四四・四㎝の一枚絹に、一面八臂で五仏宝冠を戴く大随求菩薩坐像を中尊として、周囲に八供養菩薩と四摂菩薩を描いた小さな曼荼羅である(註1)。瑠璃寺本の中心に描かれた大随求菩薩は、一面八臂の坐像であり、持物は右手の胸前が五鈷杵、脇に張り出した一番下の手で剣、その上の手で斧、一番上の手で三叉戟をとる。左手は胸前にて輪をのせた蓮、一番下の手で羂索、その上の手で宝幢、一番上の手で梵経をとる。右脚の裏を見せて蓮台上に結跏趺坐し、頭光・光背とともに挙身光を負う。また頭部に戴く黄金の冠には、拱手する如来坐像を五体表し、金剛界五仏を象徴する(図2)

一方ではまた、内院の四隅に内四供養菩薩、外院の四隅に外四供養菩薩、同院の各辺中央に四摂菩薩を配置する。これら眷属の肉身色は漢民族による四方位にも対応しており、『初会の金剛頂経』系マンダラとしての意図的な表現が、完成されている。その金箔や金截金、具色(ぐいろ)によって飾られた画面は、甘やかな印象を与え、平安仏画の余韻さえ漂わせる。

この瑠璃寺本がはじめて世に紹介されて以来、小品であることと、次のような記載が中世の聖教に存在すること等から、阿闍梨の私的な意楽(いぎょう)の曼荼羅と解釈されてきた(註2)。

「江師云。大随求曼荼羅。難有物也。世間常有本。大随求中台書。四摂八供居。是人意楽也。」(承澄『阿娑婆抄』巻第百七「大随求〈本〉」)

意楽(意巧とも)とは、「心を用いて、さまざまに工夫すること。また、その心。」(『日本国語大辞典』)という意味で、この曼荼羅が我が国の創作であることを暗示している。しかし、先に述べたとおりアジア各地での信仰の広がりや、世界中で相次いで報告されている考古学的発見からは、当時より、大随求明王のワールドワイドな造形化は必至であとみられる。そこで本稿では、可能なかぎりの網羅的な図像蒐集を踏まえて、地域性と時代性からの図像解釈を再検討してみたい。

註1 兵庫県立歴史博物館編集『総合調査報告書 船越山瑠璃寺』兵庫県立歴史博物館、二〇〇二年。

註2 菅村亨「瑠璃寺本「随求曼荼羅」をめぐって」『美術史を愉しむ』思文閣出版、一九九六年。

註3 松本榮一『燉煌画の研究』東方文化学院東京研究所、一九三七年。栂尾瑞祥「随求菩薩の展開」『大乗仏教から密教へ』春秋社、一九八一年。

第一章.インドから西域、中国における図像の変容

第一項 胎蔵系の図像

大随求菩薩の姿かたちは、はじめから具体的イメージを持っていたわけではなく、密教の展開にともなって、しだいに多面多臂化の度合いを強めていったとみられる。成就法を集成したいくつかのサンスクリット文献には、一面八臂、四面三眼八臂、三面十臂、四面十二臂の像容が記される。造形的要素のうち持物は重要な指標であり、ここでは仮に三叉戟を右・索を左に執る系統と、それとは逆に索を右・三叉戟を左に執る系統の、二分類を試みた。

まず三叉戟を右・索を左に執る系統において、現存する最古の作例が、空海請来と伝えられる現図系「胎蔵界曼荼羅」蓮華部院の中列最上段に描かれる「随求菩薩」である。現図「胎蔵界曼荼羅」は善無畏訳『大日経』(八世紀初頭成立)に依拠した曼荼羅だが、「胎蔵図像」や「胎蔵旧図像」のなかには、大随求菩薩の形像は存在せず、そのため惠果や空海の時代に加えられたと推定されている(註4)。その姿は、菩薩形の一面八臂で、化仏宝冠を戴き、蓮台に結跏趺坐し右足裏のみを見せる。右の四臂には五鈷杵、剣、斧、三叉戟を、左の四臂には輪宝をのせた蓮、索、幢、梵経を執る(図3)。以下ではこのタイプを、純粋な胎蔵系の図像と呼称しよう。観音に関連するほとけとして、つまりは変化観音の一バリエーションとして、この形像ははじめに造形化されたとみられことが興味深い。

胎蔵系の図像はこの後、大きく変容してゆく。河南省洛陽市から出土した版本「大随求陀羅尼曼荼羅」(※以下、洛陽本と呼称する。)は、天成二年(九二七)銘を持つもので、梵字「大随求陀羅尼」を同心円状と回字型の双方に書きめぐらす(註5)。大随求菩薩の図像は、純粋な胎蔵系と比較すると、五鈷杵と梵経の左右が入れ替わり、右第三・四手の順、左第一~三手の順が相異する。幢ではなく幡とする点、輪宝はそのまま掌に載せる点でも異なる。またその他の尊容では、宝冠は化仏を戴かぬことが特徴である(図4)。この洛陽本の図像と全く同じものが、ペリオ将来品である「大随求陀羅尼輪曼荼羅」(ギメ美術館所蔵、以下では敦煌MG17689本と呼称する。)に認められる(図6)。陀羅尼が同心円状に綴られる点で、制作年代はやや遅れるものの、銘文に引用された『大随求経』の内容もほぼ同文で、両者が近い環境で制作されたことが確認される(註7)。洛陽本、敦煌MG17689本の存在により、九世紀前半頃の中国・西域の大随求菩薩が、胎蔵系の図像系譜を継承しつつも、変化観音としての性格から脱却し、独立した陀羅尼の尊格として信奉されたことが示唆される。

続いて、北宋・太平興国五年(九八〇)銘の版本「大随求陀羅尼輪曼荼羅」(ギメ美術館所蔵EO3639、大英博物館所蔵。以下ではギメ・大英博本と呼称する)では(図7)、大随求菩薩は一面十臂で、左右の最も手前の一手で説法印を結ぶ。残る右四臂は梵経、幡、輪、与願印(掌を上にして掲げる)を、左四臂は剣、索、斧、五鈷杵をとる。説法印以外の八臂について、下方の腕から順に第一手として