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大随求曼荼羅試論-隠された中世東西交渉と意楽-

本文作者: 5年前 (2013-10-17)

はじめに兵庫県北西部に所在する真言宗の古刹寺院、船越山瑠璃寺には、兵庫県指定文化財「大随求曼荼…

 

 

 

はじめに

兵庫県北西部に所在する真言宗の古刹寺院、船越山瑠璃寺には、兵庫県指定文化財「大随求曼荼羅」(以下、「瑠璃寺本」と呼称する)という現存唯一の本格的な大随求菩薩のマンダラが伝えられている(図1)。大随求菩薩は、もとは陀羅尼を神格化した女尊で、梵名をマハープラティサラー(大随求明妃)と言った。のちに孔雀明王や蜜呪随持仏母、大寒林仏母、降大千界菩薩とともに、パンチャ・ラクシャー(五護陀羅尼の明妃)を構成した(註3)。大随求菩薩/マハープラティサラーを説く経典『大随求陀羅尼経』には、サンスクリットとチベット訳と、漢訳である唐・宝思惟訳『仏説随求即得大自在陀羅尼神呪経』(大正蔵no.1154)、唐・不空訳『普通光明清浄熾盛如意宝印心無能勝大明王大随求陀羅尼神呪経』(大正蔵no.1153)の、計四本が存在し、不空により『金剛頂瑜伽最勝秘密成仏随求即得神変加持成就陀羅尼儀軌』(大正蔵no.1155、以下『随求儀軌』と略記する)も漢訳された。漢訳経典では明妃を女尊ではなく「菩薩」として訳したため、東アジアを中心に男性尊格として定着したとみられる。

さて瑠璃寺本は、縦五五・二㎝、横四四・四㎝の一枚絹に、一面八臂で五仏宝冠を戴く大随求菩薩坐像を中尊として、周囲に八供養菩薩と四摂菩薩を描いた小さな曼荼羅である(註1)。瑠璃寺本の中心に描かれた大随求菩薩は、一面八臂の坐像であり、持物は右手の胸前が五鈷杵、脇に張り出した一番下の手で剣、その上の手で斧、一番上の手で三叉戟をとる。左手は胸前にて輪をのせた蓮、一番下の手で羂索、その上の手で宝幢、一番上の手で梵経をとる。右脚の裏を見せて蓮台上に結跏趺坐し、頭光・光背とともに挙身光を負う。また頭部に戴く黄金の冠には、拱手する如来坐像を五体表し、金剛界五仏を象徴する(図2)

一方ではまた、内院の四隅に内四供養菩薩、外院の四隅に外四供養菩薩、同院の各辺中央に四摂菩薩を配置する。これら眷属の肉身色は漢民族による四方位にも対応しており、『初会の金剛頂経』系マンダラとしての意図的な表現が、完成されている。その金箔や金截金、具色(ぐいろ)によって飾られた画面は、甘やかな印象を与え、平安仏画の余韻さえ漂わせる。

この瑠璃寺本がはじめて世に紹介されて以来、小品であることと、次のような記載が中世の聖教に存在すること等から、阿闍梨の私的な意楽(いぎょう)の曼荼羅と解釈されてきた(註2)。

「江師云。大随求曼荼羅。難有物也。世間常有本。大随求中台書。四摂八供居。是人意楽也。」(承澄『阿娑婆抄』巻第百七「大随求〈本〉」)

意楽(意巧とも)とは、「心を用いて、さまざまに工夫すること。また、その心。」(『日本国語大辞典』)という意味で、この曼荼羅が我が国の創作であることを暗示している。しかし、先に述べたとおりアジア各地での信仰の広がりや、世界中で相次いで報告されている考古学的発見からは、当時より、大随求明王のワールドワイドな造形化は必至であとみられる。そこで本稿では、可能なかぎりの網羅的な図像蒐集を踏まえて、地域性と時代性からの図像解釈を再検討してみたい。

註1 兵庫県立歴史博物館編集『総合調査報告書 船越山瑠璃寺』兵庫県立歴史博物館、二〇〇二年。

註2 菅村亨「瑠璃寺本「随求曼荼羅」をめぐって」『美術史を愉しむ』思文閣出版、一九九六年。

註3 松本榮一『燉煌画の研究』東方文化学院東京研究所、一九三七年。栂尾瑞祥「随求菩薩の展開」『大乗仏教から密教へ』春秋社、一九八一年。

第一章.インドから西域、中国における図像の変容

第一項 胎蔵系の図像

大随求菩薩の姿かたちは、はじめから具体的イメージを持っていたわけではなく、密教の展開にともなって、しだいに多面多臂化の度合いを強めていったとみられる。成就法を集成したいくつかのサンスクリット文献には、一面八臂、四面三眼八臂、三面十臂、四面十二臂の像容が記される。造形的要素のうち持物は重要な指標であり、ここでは仮に三叉戟を右・索を左に執る系統と、それとは逆に索を右・三叉戟を左に執る系統の、二分類を試みた。

まず三叉戟を右・索を左に執る系統において、現存する最古の作例が、空海請来と伝えられる現図系「胎蔵界曼荼羅」蓮華部院の中列最上段に描かれる「随求菩薩」である。現図「胎蔵界曼荼羅」は善無畏訳『大日経』(八世紀初頭成立)に依拠した曼荼羅だが、「胎蔵図像」や「胎蔵旧図像」のなかには、大随求菩薩の形像は存在せず、そのため惠果や空海の時代に加えられたと推定されている(註4)。その姿は、菩薩形の一面八臂で、化仏宝冠を戴き、蓮台に結跏趺坐し右足裏のみを見せる。右の四臂には五鈷杵、剣、斧、三叉戟を、左の四臂には輪宝をのせた蓮、索、幢、梵経を執る(図3)。以下ではこのタイプを、純粋な胎蔵系の図像と呼称しよう。観音に関連するほとけとして、つまりは変化観音の一バリエーションとして、この形像ははじめに造形化されたとみられことが興味深い。

胎蔵系の図像はこの後、大きく変容してゆく。河南省洛陽市から出土した版本「大随求陀羅尼曼荼羅」(※以下、洛陽本と呼称する。)は、天成二年(九二七)銘を持つもので、梵字「大随求陀羅尼」を同心円状と回字型の双方に書きめぐらす(註5)。大随求菩薩の図像は、純粋な胎蔵系と比較すると、五鈷杵と梵経の左右が入れ替わり、右第三・四手の順、左第一~三手の順が相異する。幢ではなく幡とする点、輪宝はそのまま掌に載せる点でも異なる。またその他の尊容では、宝冠は化仏を戴かぬことが特徴である(図4)。この洛陽本の図像と全く同じものが、ペリオ将来品である「大随求陀羅尼輪曼荼羅」(ギメ美術館所蔵、以下では敦煌MG17689本と呼称する。)に認められる(図6)。陀羅尼が同心円状に綴られる点で、制作年代はやや遅れるものの、銘文に引用された『大随求経』の内容もほぼ同文で、両者が近い環境で制作されたことが確認される(註7)。洛陽本、敦煌MG17689本の存在により、九世紀前半頃の中国・西域の大随求菩薩が、胎蔵系の図像系譜を継承しつつも、変化観音としての性格から脱却し、独立した陀羅尼の尊格として信奉されたことが示唆される。

続いて、北宋・太平興国五年(九八〇)銘の版本「大随求陀羅尼輪曼荼羅」(ギメ美術館所蔵EO3639、大英博物館所蔵。以下ではギメ・大英博本と呼称する)では(図7)、大随求菩薩は一面十臂で、左右の最も手前の一手で説法印を結ぶ。残る右四臂は梵経、幡、輪、与願印(掌を上にして掲げる)を、左四臂は剣、索、斧、五鈷杵をとる。説法印以外の八臂について、下方の腕から順に第一手として数えると、胎蔵系とも重なる持物は左第三手の索のみである。また先行する胎蔵系の洛陽本と比較すると、左右手で剣および斧と、輪および幢とが逆転しているものの、右手の梵経と、左手の索および五鈷杵とを持物として継承している(与願印と思われる右手は、宝珠が欠落したための造形であろう。)。そのため、胎蔵系の系譜をひくことは確かだ。

また写し崩れた装飾文様から、ギメ・大英博本とほぼ同時期の制作と考えられるのが、敦煌出土の版本「大随求陀羅尼曼荼羅」(ギメ美術館所蔵、MG17688 以下、敦煌MG17688本と呼称する)である(図9)。両者の外周には、三つ葉と宝珠を重ねたような形が連ねられ、制作環境の近さをほのめかす。主尊は大随求菩薩から、転法輪印仏陀に置き換わっており、一面二臂の如来形が説法印を結んだものである。この印相は、ギメ・大英博本における大随求菩薩の左右第一手である説法印を継承したものにほかならなず、インドにおける金剛界大日如来の印相が、智拳印から転法輪印へと年代的変化をとる傾向が想起される(註11)。中尊は歴史的な釈迦ではなく、大乗的仏陀かもしくは金剛界大日を表すのだろう。ちなみに讃文もまた、ギメ・大英博本と同一であり、銘の「西天」とは、敦煌もしくは周辺の交易都市を指すとみらるため、西域との関与が一層明瞭となる。

そして胎蔵系の掉尾を飾る基準作が、蘇州・瑞光寺塔第三層天宮より発見された版本「大随求陀羅尼輪曼荼羅」(蘇州博物館所蔵 以下、瑞光寺塔本)である(図10)。銘文により、咸平四年(一〇〇一)に城(成)都府の僧俗らが結縁し、杭州で開版されたことが知られる。中心の円光内に宝冠仏坐像を表す。この如来形は一面二臂で、冠帯を左右に垂らした宝冠を戴き、通肩の僧衣により鎖骨までを覆い、蓮台上に結跏趺坐する。胸前にあげた左手で右手を握りこむようにした印相は、左拳印を思わせ、自然と金剛界大日如来の宝冠如来形による表現とみなしたくなる。実は瑞光寺塔本を収納していた「真珠舎利宝幢」では、その台座を四体の宝冠仏が、四天王とともに荘厳しているのである(註13)。

第二項 舎衛城の神変と飾られた仏陀

さて、大随求菩薩と重層する瑞光寺塔本の宝冠仏坐像や、敦煌MG17688本、それに連なるギメ・大英博本の思想的背景を考えてみたい。ギメ・大英博本において、中尊の坐す蓮華座を海中から上半身を現した二龍王が肩に担ぐ点で、極めて特徴的だと言える。同様にして、敦煌MG17689本においても、主尊を載せた蓮華座を、海中から現れた、龍王と思しき四体の神将形が肩に担いでいる。我が国では准胝観音の眷属として馴染みの深い、蓮華座を支える二龍王であるが、その図像的淵源は仏伝中の「舎衛城の神変(シュラーヴァスティ)」に求められる(註8)。とりわけガンダーラでは、のちに中央アジア・中国で大きく展開する浄土図の祖型と目され、宇宙主的釈迦の表現が花開いた(註9)。たとえばペシャワール博物館所蔵の「蓮華座上の仏説法」は、説法印を結ぶ仏陀が巨大な蓮華座上に結跏趺坐し、その蓮華座の茎を海中より半身を表した二龍王が支えいる(図8)。「舎衛城の神変」という生涯の事跡における釈迦から離れ、大乗的仏陀の表現として進化を遂げている。これらと類似する敦煌MG17688本やギメ・大英博本は、まさに大乗的仏陀と大随求菩薩とが重層した表現といえよう。しかも、この二つと密接な繋がりをもつ瑞光寺塔では、大随求菩薩が宝冠をいただき、智拳印を結ぶ仏陀の姿であらわされ、普遍的な大乗仏をも越えて、密教的な尊格として機能する。

密教化した瑞光寺本の主尊と関連すると思われるのが、ガンダーラやスワートなど、ヒンドゥークシュ山脈南側の中央アジアにおいて造形化された、宝冠をいただき、僧衣に装飾のついた肩掛けを纏う「飾られた仏陀」である(註14)。とくに八~九世紀頃のカシミール地方では、転法輪印を結ぶ仏陀の坐す蓮華座を、二龍王が支える造形がしばしば制作されていた。たとえばロックフェラー・コレクション所蔵のブロンズ像では(図11)、冠をいただき、三叉状の肩掛けをつけた仏陀が、胸前で転法輪印を結ぶ。しかも仏陀の坐す蓮華座を、海中より上半身を現した二龍王が支えており、仏陀は特定の仏である釈迦の伝記から離れ、普遍的な仏としての表出に置き換わっている。こうした中央アジアの大乗的仏陀の表現に、密教尊として表現した瑞光寺本や、敦煌MG17688本の淵源が求められる。

実際にこれらの地域では、時期的にほぼ並行して、密教尊像としての宝冠如来坐像も造形化されていた。作風よりスワートの八世紀頃の作とされる「智拳印大日如来坐像」(シルクロード研究所所蔵)は、胸前で智拳印を結ぶことから、金剛界大日如来との関連が推定される(註15)。しかもその像容は宝冠を戴き、瓔珞などで身を飾り、大衣を偏袒右肩に纏う仏陀像である(図12)。宝冠をかぶる如来形の智拳印大日如来像は、およそ八世紀以降に中国、韓国でも隆盛したが(註16)、中国の十世紀頃の制作とみられる「石造仏五尊像浮彫」(愛知県陶磁資料館所蔵)には、宝冠と肩掛けらしき飾りの付いた大衣をまとう、智拳印大日如来が表される。このほか、応県木塔出土の『大法炬陀羅尼経』巻第十三見返し絵(一〇〇五年)や、銅製「大日如来坐像」(メトロポリタン美術館所蔵)、「大日如来像浮彫」(故宮博物院所蔵)など、中国中央王朝よりもむしろ周辺国である遼に、宝冠如来形智拳印で表される金剛界大日如来像が、存外少なくないことに留意される。遊牧民族である突厥と、「飾られた仏陀」の制作が密接に関わるという指摘もあり、大変興味深い(宮治1981)。大乗的釈迦や密教仏としての中央アジアの造形が、カラコルム・ハイウェイを越え、西域や北方のステップ地帯へ、さらには敦煌を経て中国中央王朝や周辺国家へともたらされたのではなかろうか。

第三項 パンチャ・ラクシャーと金剛界五仏、造塔信仰

インド後期密教や、あるいはポスト・インド中期密教かもしれないが、陀羅尼の神格化した大随求仏母(明妃)は、「五護陀羅尼の明妃(パンチャ・ラクシャー)」のうちの中尊として、大随求菩薩が金剛界五仏のうちの大日如来と深く結びつけられた。中尊としての大随求明妃は、一二世紀前半までに成立した成就法の集成『サーダナ・マーラー(成就法の花環)』や、アヴァヤーカラ・グプタの『ニシュパンナ・ヨーガーヴァリー(完成されたヨーガの環)』に記され、その生成は少なくともルドラ・デーヴァの治世(一〇一五年)以前に遡るとみられている(栂尾1981)。中国における「五護陀羅尼」の、用語自体の初出は、一三四一年成立の『仏祖歴代通載』を待たねばならない。しかし、『サーダナ・マーラー』へと受け継がれた大随求明妃の図像と関わり、北宋では早くも法賢(~一〇〇一)が、インド後期密教経典『瑜伽大教王経』を漢訳している。敦煌MG17688本やギメ・大英博本、瑞光寺塔本の主尊の図像は、それゆえ初動的なインド後期密教(もしくはポスト・インド中期密教)の思想により、大随求菩薩と金剛界大日、あるいは大乗的仏陀とさらに重層する密教仏を、象徴したものなのである。

そして造塔信仰についても補足せねばならない。再度注目したいのが、ロックフェラー・コレクション所蔵の彫像である。二龍王によって支えられた蓮華の茎は、途中で枝分かれして、釈迦の左右で二基の塔を支えているからだ。中央アジアでは、この他にも涌出する宝塔とともに造形化された「蓮華座上の仏説法」や、舎利容器や塔とともに出土した説法印の「飾られた仏陀」が存在した。その出典は明らかにされていないが、宮治昭氏は早くより大乗経典との結びつきを示唆されてきた。たとえば『法華経』には、世尊が禅定三昧に入り、大光明を発して諸々の仏国土を照らし、諸仏の涅槃後に、舎利をもって七宝塔が起てられるのを明らかにした、という記述がある(「序品」霊鷲山説法と如来放光瑞)。こうした奇瑞場面は大乗経典に散見されるものの、とりわけ『法華経』では随所に造塔思想が強く打ち出され、『法華経』は如来全身舎利に他ならなず、『法華経』のあるところには塔を起て供養すべきであるいという記述もある(「法師品」塔供養など)。よってカシミールの「飾られた仏陀」に、釈迦の大乗的神格化にくわえて、造塔思想を読み込むことは、存外的外れではないのである。

さらにカシミールの造形と類似した瑞光寺本では、発展して法舎利や塔への信仰も表徴する。四天王へと置き換わっているが、四体の神将形がもとは龍王を意図したことは、明らかである。この瑞光寺本は、「真珠舎利宝塔」に収められた状態で、「紺紙金字法華経」などの大乗経典とともに瑞光寺塔から出土したことも鑑みていただきたい。一〇世紀後半の北宋で制作された「版本霊山変相図(釈迦如来立像納入品)」(清涼寺所蔵)には、霊鷲山麓で説法を行う釈迦ととともに、七層の塔が描かれる。『法華経』「法師品」の経句を踏まえ、「一心頂礼妙法蓮華経釈迦多宝如来全身舎利宝塔」と讃が記される。実際、この摺仏に描かれた塔の中には、釈迦・多宝の二仏とともに、『法華経』七巻とが安置され、視覚的にも塔と『法華経』とが結びつく。敦煌MG17688本が一見して、大随求菩薩が釈迦と見まごう図像となっていたのも、一般的な大乗思想や密教思想だけではなく、特定の大乗経典である『法華経』を意図した可能性もある。

一方、塔と『随求経』とを直接結びつける思想は、北宋のみならず仏教の隆盛した呉越国に具体的にうかがわれる。杭州の梵天寺には阿育王霊蹤の崇雁塔を讃えるため、乾徳四年に呉越国王・銭俶により起てられた経幢があったという(『両浙金石志』第五)。そこには「大随求即得大自在陀羅尼神尼(ママ)経」、すなわち宝思惟訳『随求経』が刻まれていた。雲林寺にもやはり銭俶王による「随求即得大自在陀羅尼呪」経幢が存在したという(『両浙金石志』第五)。こうした一〇世紀後半から一一世紀初頭にかけての東アジアにおける思想史的状況と、マテリアルとしての『随求経』や大随求菩薩の絵画が、東アジアでは塔中に込められたこと、あるいはそれらが死者とともに埋葬されたことは、決して偶然ではなかろう。思想とイメージのどちらの受容も生じることで、大随求菩薩の図像は変化したのである。

註4 石田尚豊『曼荼羅の研究』東京美術、一九七五年。栂尾1981

註7 宿白『唐宋時期的雕版印刷』北京、文物出版社、一九九九年

註8 森雅秀『インド密教の仏たち』春秋社、二〇〇一年

註9 宮治昭「宇宙主としての釈迦仏 インドから中央アジア・中国へ」『曼荼羅と輪廻』佼成出版社、一九九三年(再録 宮治昭『インド仏教美術史論』中央公論美術出版社、二〇一〇年)

註10 田中公明『敦煌密教と美術』法蔵館、二〇〇〇年

註11 頼富本宏「智拳印について」『密教学研究』二七、一九九五年。

註12 『(展覧会図録)古印度的文明』上海博物館、二〇一一年七月。

註13 蘇州博物館『虎丘雲岩寺塔瑞光寺塔文物』文物出版社、二〇〇六年。

註14 宮治昭「バーミヤンの「飾られた仏陀」の系譜とその年代」『仏教芸術』一三七号、一九八一年七月

註15 宮治昭「インドの大日如来の現存作例について」『密教図像』一四号、一九九五年一二月

註16 朴亨國「金剛界大日如来と七獅子蓮華座」『日本の美術 大日如来』至文堂、一九九七年。朴亨國「韓国の大日如来像」頼富本宏編著『大日如来の世界』春秋社、二〇〇七年。

 

第四項 金剛系の図像

さて、これまで見たものとは逆に、索を右・三叉戟を左に執る大随求菩薩の図像系統も確認しておきたい。このうち最も遡るもののひとつが、西安市西郊の墳墓から出土した絹本墨画淡彩「大随求陀羅尼曼荼羅」(陝西省博物館所蔵)である(西安西郊本と呼称する)(註17)。三眼であることが珍しいが、八臂図像に関しては、胎蔵系の右第四手と左第三手の持物を、単純に差し替えたもので、胎蔵系とは索・三叉戟の左右が逆転する(図13)以下では便宜上、この図像を金剛系と呼称しよう。中唐時代(八世紀半ば~九世紀半ば頃)の制作と見られる。

ほどなくしてこの金剛系の図像は、八六四年頃の莫高窟第一五六窟西壁龕頂西坡や(図14)、同第一四八窟の大随求菩薩へと展開した(註18)。純粋な金剛系と比較して、左右手それぞれで第三手と第四手の持物が入れ替わるのみの変化である。左第一手を胸前にあげ空手となっているのは、金剛系における輪を載せた蓮が消失したためであろう。冠には化仏を戴き、変化観音として描かれたものと推察される。

これら金剛系の流れをくむと三つの作例がある。成都府龍池坊で印刷された版本「大随求陀羅尼曼荼羅」(四川省博物館所蔵)は(図15)、折りたたまれた形で墳墓から出土した(以下、成都本と呼称する。)(註19)。主尊の像容は、純粋な金剛系の図像と比較した場合、右手第二手と同第四手の持物を入れ替え、同第四手の持物を剣とし、索を持つはずの第二手の持物は消失する。左手は第一・二手で持物を入れ替え、同第一手を、同第二手を輪とし、同第三・四手の持物は不明である。これと同種の図像が、法門寺塔地宮から舎利容器などとともに出土した、「捧真身菩薩像」(八七一年)台座線刻の斜め向き大随求菩薩である(法門寺塔本と呼称する)(図16)。法門寺塔本の図像は、右四臂は成都本と同様ながらも、左四臂が同第三手に幢、同第四手に三叉戟を執り、同第一・二手の持物は消失している(註20)。八大明王のうちの一尊として表現される。さらに偶目するところでは、十世紀・パーラ朝時代の「大随求明妃像」(メトロポリタン美術館所蔵)がある。平たい蓮華座に坐す正面向きの浮彫で、瓔珞や耳環、宝冠などで艶やかに身を飾る女尊として表現されている。右四臂を、成都本とほぼ同様として、左手は同第一手に索、同第二手に幢、同第三手に輪、同第四手に三叉戟を執る。これら三つの作例は、右第三手を空手とし、左手に索と三叉戟の両方を持つのが特徴である。先端的なインド密教(プレ後期密教)の流れが、晩唐時代の都・洛陽へと伝えられ、しかも大随求菩薩の性格を八大明王の一尊として変質させていたことが興味深い。

 

註17 李域〔=金+争〕、関双喜「西安西郊出土唐代手写経呪絹画」『文物』三三八、一九八四年七月。

註18 敦煌研究院『敦煌石窟全集 密教画巻』香港、商務印書館(香港)有限公司、2003

註19 馮驥「唐印本陀咒的発現」『文物』一九五七-五、一九五七年五月。保全「世界最早的印刷品 西安唐墓州土印本陀羅尼経呪」『中国考古学研究論集』西安・三秦出版社、一九八七年。安家瑤、馮孝堂「西安澧西出土的唐印本梵文陀羅尼経呪」『考古』三六八、一九九八年五月。銭存訓著、鄭如斯編、久米康生訳『中国の紙と印刷の文化史』東京、法政大学出版局、二〇〇七年。

註20 見田隆鑑「法門寺地宮出土の「捧真身菩薩」台座下部に表される八体の尊像について」『汎アジアの仏教美術』中央公論美術出版社、二〇〇七年。

第二章 日本への図像伝播

では、こうした大随求菩薩に対する大陸での信仰や図像は、いつ頃どのようにして我が国にもたらされ、いかに受容されたのだろうか。我が国でも現存する最古級の作例は、胎蔵系の図像と呼称した、現図系「胎蔵界曼荼羅」蓮華部院の「随求菩薩」である。そして、十三世紀の天台の事相書である承澄『阿娑婆抄』巻第一〇七「大随求本」によれば、この胎蔵系の図像の周囲に、梵字「随求陀羅尼」を円形に綴った「大随求陀羅尼」が、中国から舶来されていた。

「調図云(中略)私西條如移之

   図有之。依求先略之云々 遂可書入之。前唐院本也」

「前唐院ニ此像ヲ中台トシテ、以二梵字大陀羅尼ヲ旋書ス」

比叡山の前唐院には、胎蔵系の大随求菩薩を中台とした「大随求陀羅尼輪曼荼羅」が存在したという。陀羅尼が梵文であることと、それを円形に書きめぐらしていることを、現存作例に照らし合わせば、十世紀末前後の制作ではないかと推測される。同書には、この「大随求陀羅尼輪曼荼羅」が、天養元年(一一四四)に延暦寺唐院の本尊として確認された口伝が記される。

「天養元年一〇月和尚(朱 青■院)令開唐院。愚僧祗候。其座開御厨子等。其中大随求陀羅尼銘書有之。披見所。中臺書胎大随求菩薩。周匝以梵字。書大随求陀羅尼。大師御将来尤可仰信。」

 十世紀前後の作とみられる「大随求陀羅尼輪曼荼羅」が、文末に「大師御将来尤可仰信」と添えられるように、早くも十二世紀前半の段階で権威づけされた状況がわかる。されに同書には、別の「大随求陀羅尼輪曼荼羅」も記され、こちらは二重円輪を描き、外の円輪のうちに梵字の「大随求陀羅尼」を書きめぐらし、さらに内の円輪のなかには智拳印を結ぶ大日如来を描いたというのだ。

「唐院本。二重円輪中心内大日〈智拳印〉第二重円輪中大陀羅尼周匝梵字書之。円輪外四隅各画菩薩像。」

すぐさま瑞光寺塔本が想起されよう。金剛界大日如来と重層した、胎蔵系の大随求菩薩や曼荼羅がもたらされていたことがわかり、貴重である。しかし、十一世紀初頭以降にもたらされた図像が、十三世紀にはすでに「唐院本」として、権威化もしくは心の支えとしえて喧伝されている。このスパンは、掛幅装の仏画がおよそ百五十年前後で表具や画面の損傷のため修理されるスパンとも一致し、大変興味深い。なお、この「唐院本」の二重円輪の外の四隅に配された四菩薩が、内四供養菩薩であることは言を待たない。

一方、索・三叉戟の左右手を逆にとる金剛系の系統も、日本に伝えられている。西安市西郊本と同じ図像が、十二世紀成立の永厳『図像抄』巻第五「大随求菩薩」図像三七番におさめられており、本文が記載される。

「金剛智三蔵金泥曼荼羅。并禅林僧正請来金剛界一会曼荼羅中。亦有此菩薩。同八臂也。右方四手五古鉞斧剣索也。左方四手輪梵夾戟宝幢也。左右二手持物相異索戟歟。図可依金剛界別本曼荼羅様有其故云々」

『阿娑婆抄』巻第百七「随求」にも、『図像抄』の記述を参照したとみられ、ほぼ同文が収められ、これら主張するところ、胎蔵系とは異なるこの図像は、金剛智の「金泥曼荼羅」と、宗叡請来の「金剛界一会曼荼羅」のなかにある大随求菩薩の図像だという。もちろん遺品としてもテクストとしても、十一世紀以前に遡るような金剛智や宗叡の将来伝承は、管見のかぎりうかがわれない。先ほどの百五十年前後で史実が塗り替えられる、という傾向と照らし合わせると、この異本「金剛界曼荼羅」もまた十世紀から十一世紀初頭頃に将来されたものではなかっただろうか。

莫高窟第一五六窟・第一四八窟の大随求菩薩と、ほぼ同じ図像も、十二世紀の事相書『覚禅図像巻上四七番(一三〇番)の「随求仏頂」に収録されている。莫高窟第一五六窟の図像と比して、右第二手に剣をとらず施無畏印のように掌をうわむけ、左手第一手は本来の持物である輪をのせた蓮の茎を胸前で握る。移し崩れに起因する持物の異同が、双方に生じたとみるべきであろう。しかしながら『覚禅』所収の「随求仏頂」は、斜めむきの尊容で、四隅に金剛嬉、金剛鬘、金剛歌、金剛舞の四供養菩薩を配置するという、大きな相異もある。

さて、最後に確認する図像が、その法門寺塔地宮から出土した「捧真身菩薩像」(八七一年)台座線刻と類似する大随求菩薩である。法門寺塔本の像容は、純粋な金剛系の図像と比較した場合、右手第二手と同第四手の持物を入れ替えたうえで、第二手の持物が消失し、左手は第二・三・四手で持物を入れ替えたうえで、同第一・二手の持物が消失している。その結果、同じく斜めむきの尊容である心覚『別尊雑記』(仁和寺本)巻五「随求」と、左手四手の持物が完全に符合し、こちらの左第二手には本来の持物である剣を執る。このようにパーラ朝時代の東インドに淵源をもとめられる金剛系の図像が、十二世紀の日本では新たに金剛界曼荼羅と関連づけられ、極小の曼荼羅を形成するにいたっていた。興味深いことに、これら金剛系のうち『図像抄』図像37や、仁和寺本『別尊雑記』巻五の図像は、大随求菩薩の冠を、単なる宝冠や化仏とするのではなく、五仏宝冠とする。この現象は、大随求菩薩が金剛界五仏のなかの中尊、金剛界大日と重層することを示唆するが、日本以外で制作された図像では、また日本で描かれた胎蔵系の図像では、窺われない特徴である。つまり、五仏宝冠というモティーフは十二世紀の日本で付け加わったものと思われ、事相書にもとづくならば、常に金剛系の図像と結びつく。

第三章 平安時代後期の思想的背景

我が国では平安時代後期から鎌倉時代にかけて、別尊曼荼羅がしきりに制作され、それを本尊とする密教修法(別尊法)が隆盛したが、そうした儀礼の誕生や図像の成立に関しては、未だ謎に包まれていることが少なくない。密教修法としての「随求法」が、確かな記録として登場するのは、康和二年(一一〇〇)正月のことである。中宮・篤子内親王のため、北斗法、一字金輪法、随求法が修された。随求法は、範俊が導師を勤め、比叡山において行われた。

「康和二年五(正)月一五日、壬午、参宮(中宮)、被始御修法、北斗〈覚修、〉一字金輪〈定慶、〉随求〈範胤、於山行之、〉」(5)

しかし験がなかったためか、三日後の同月一八日には、再び中宮の祈りとして、天台座主・仁覚による熾盛光法が山上で行われた。昨年閏九月頃より中宮は病がちになり、写経や延暦寺での密教修法がしばしば行われてので(6)、記録上の初出である随求法も、中宮の病気平癒を目的として、試みられた可能性がある。儀礼そのものについては筆者の手に余るが、その本尊として、たとえば瑠璃寺本と祖本を共通する曼荼羅が掛けられたことは、自然と想起されるであろう。まず、小幅であるとはいえ、本格的な絹本着色の曼荼羅である瑠璃寺本は、修法の本尊とするために制作されたことは疑いえない。曼荼羅の構成は、これまで見たような肌身守りとしての「大随求陀羅尼(輪)曼荼羅」から、八供養菩薩や四摂菩薩を採用したものと見られる。そうしてみれば、大きさが本尊画像としては小さいことも、かえって版本のため判型が小さい原本をたやすく想像できる。おそらくその原本とは、胎蔵系の図像を中心とした十二眷属による構成であり、その全体的構成が成立した後、日本にもたらされたのだろう。そして、その原本をもとに、細部である宝冠に五智如来の化仏を付したものが、瑠璃寺本の祖本であると推測される。

平安時代中期には、「大随求陀羅尼」が極楽往生への願いを機縁とした信仰を形成していたことが、すでに指摘されている(2)。それと並行して、摂関期の宮中では護身的な役割が、「随求陀羅尼」に期待されていた。

「      おなじ所なる童を見る人、もの言ふついでにかいなゝるすいくを取りたれば請ひにたるをきゝて

     われにこそ心の鬼はつくれどもたれにあひてかたましとるらん」

(冷泉家本輔親集・八五、冷泉家時雨亭叢書)

この大中臣輔親(九五四~一〇三八)の和歌から、「かいな(腕)」の「たま」に「随求陀羅尼」をおさめたこと導いた、河野小百合氏の考察はまさに卓見といえる(4)。西安から出土した腕釧(図9)にちいさく折りたたんでおさめられた「大随求陀羅尼曼荼羅」をすぐさま想起させよう。この肌身守り的な信仰は、院政期の私家集である源俊頼(一〇五五~一一二九)の『散木奇歌集』にも散見される。「随求のたま」を宮中人物に贈り、「随求陀羅尼」または「大随求陀羅尼曼荼羅」を入れる金属製容器に細工をさせている。平安時代末期成立の説話集『宇治拾遺物語』巻第一の五において、額の切傷に「大随求陀羅尼」を籠めたと嘯く男の説話も、護身的お守りという分脈を設定してみることで、一層滑稽さが増す。このように摂関期から院政期にかけての日本では、天台浄土教的な思想を背景にした「大随求陀羅尼」と、護身的なお守りとして使用された「大随求陀羅尼」もしくは「大随求陀羅尼曼荼羅」の二系統が信仰された。むしろ大随求菩薩の姿かたちと関わるのは、護身的なお守りの場合、とりわけ輔親の時代の「腕なる随求」であろう。この頃の「大随求陀羅尼曼荼羅」の多くは、量産可能な木版画による紙片(摺仏)である。つまり大寺院の高僧や、宮中の為政者らによる公的な文物導入である必要はなく、市井の人々の願いに寄りそったいわば「まじない」として、「大随求陀羅尼曼荼羅」は草の根レベルで流通し、中心に描かれる「大随求菩薩」の図像も民間に流布していたと考えられる。

中国では、法門寺塔や瑞光寺塔のように造塔思想と不可分な関係にあった大随求菩薩であるが、日本ではそうした思想は別尊法に収斂されていった。その現象を日本では名付けて「意楽」と言った。平安時代末期さながらの工芸的手法で彩られた瑠璃寺本と、その言葉とを重ねて眺めてみる時、日本人の追いもとめた憧憬がほのかに垣間見えるようである。

註1 浅井覚超「『大随求陀羅尼経』梵蔵漢対照研究」『密教文化』一六二、一九八八年

註2 速水侑「第二章第二説 光明真言と平安浄土教」『平安貴族社会と仏教』吉川弘文館、一九七五年

註3 天禄三年五月三日「天台座主良源遺告」「一、葬送の事」「窣都婆中安置随求・大仏頂・尊勝・光明・五字・阿弥陀等真言。」(『平安遺文』二巻、古文書編三〇五号、「芦山寺文書」 )。

註4 河野小百合「「心の鬼」と「随求経」輔親集の歌をめぐって平安和歌における仏典の影響」『愛媛国文研究』五一、二〇〇一年一二月。

註5 『元亨四年具注暦裏書』康和二年正月十五日条(『大日本史料』三編五冊による)

註6 『元亨四年具注暦裏書』康和元年閏九月十六日条(『大日本史料』三編五冊による)

 

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